鹿児島県庁記者クラブ「青潮会」の取材妨害に異議あり――裁判はじまる

 鹿児島県知事の就任記者会見を取材しようとしたところ、県側が認めているにもかかわらず、地元記者クラブ「青潮会」構成員らが妨害した事件をめぐって当時の幹事社・共同通信社と支局長らを相手どった損害賠償請求訴訟の第1回口頭弁論が、9月25日、東京地裁526号法廷(大須賀寛之裁判長)であった。被告側代理人が欠席(民訴法で被告は第1回口頭弁論は欠席してもかまわない)するなか、私は裁判をはじめるにあたっての考えを、「意見陳述」として以下のとおり口頭で述べた。
 
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 原告の三宅勝久です。
 地方公共団体の首長が広く社会に説明責任を果たす場である記者会見を、特定のメディア企業だけで独占し、意にそぐわない者の取材を妨害するという今回の事件は、まさに報道の自由を損ない、ひいては国民の知る権利を損なうことにもつながる社会的な問題である――私はそのような危機感を覚え、本件提訴を行ったものです。
 記者会見の運営実態というのは一般には知られていません。被告らが原告らに対して行った行為を一般の人が知れば、大半の人が不合理と感じるのではないでしょうか。

 2020年7月28日午前、私は原告の寺澤有氏らフリージャーナリスト数人とともに鹿児島県庁を訪れました。寺澤氏は東京から、私は実家の岡山に滞在中でしたのでそこから向かいました。塩田康一鹿児島県新知事の就任に伴う一連の行事を取材するのが目的です。
 新知事は「開かれた記者会見」を公約にしていました。県庁に着くと私たちはまず広報課を訪れ、知事記者会見への参加に問題がないことを確かめました。その上で、登庁のイベントやその後の幹部会議などを取材しました。ここまではなんら問題はありませんでした。
 ところが知事就任記者会見の段になって、被告ら「青潮会」が干渉してきました。青潮会というのは地元で活動する特定の新聞社やテレビ局、通信社でつくる排他的な任意団体で、いわゆる記者クラブです。「自分たちのルール」に従わないから会見取材はできないと言い出したのです。このとき私は「ルール」の内容はおろか、青潮会なる団体の具体的な実態もよく知りませんでした。その全構成員を把握できたのは、県に情報公開請求を行い、さらに非開示処分の取り消しを求めて審査請求を行った結果、非開示処分が取り消された後のことです。
 私は、自分が記者であり、取材目的で会見場に来ていることがわかれば足りるのではないかと考え、持参していた著書『大東建託商法の研究』を差し出しました。青潮会の一人は「その本は持っている」と答えました。私たちが記者であることを彼らはすでに知っていたのです。しかし、被告らはやはり頑として記者会見取材を認めようとしませんでした。
 やがて会見開始時間が迫ってきたので、私たちは会場の大会議室に入ることにしました。すると、入口の前に被告ら青潮会関係者と思われる大勢が立ちはだかり、2重3重に人垣を作って行く手を阻みました。なお、県職員から「入室しないでください」などと注意されたことは一度もありません。
 当然のことながら庁舎管理権は県にあるはずです。なぜ一民間企業の社員が県の庁舎である記者会見場への出入りを妨害するのか、強い疑問を持ちました。抗議し、説明を求めましたが「ルールに従わない」と繰り返すだけでした。結局、私たちは知事就任記者会見を取材することはできませんでした。
 後になって被告らのいう「ルール」の具体的内容を確認した私はあきれました。指定した媒体に発表した署名記事を添付して、1週間前までに申請し、許諾を得なければならないというのです。なぜ任意団体にすぎない同業者団体に検閲まがいのことをされなければいけないのか、という疑問はさておき、「1週間前までの申請」では、「ルール」の存在を当日になって知った私にとっては物理的に不可能だったのです。
 私たちが知事記者会見の取材に加わることで被告らの取材活動に悪影響が生じることは考えにくい状況でした。そうすると、「ルール」を執拗に求めた動機というのは、知事記者会見を私物化するためなのか、あるいは自分たちのなわばりを主張して、いわば「あいさつ」を求めているということなのでしょうか。そうとでも理解するほかありません。県知事の記者会見という事業の公共性と性格を考えれば、不健全であることは確かです。

 30年前の1994年、共同通信社の助手としてエルサルバドルを訪れたときのことを私はいま思い出しています。内戦が終結し、国連選挙監視員団のもとで行われた選挙の取材でした。写真を電送するためAP通信社をたずねると、何人もの記者があつまって情報交換をしていて、そのなかにロイター通信の現地採用記者の男性がいました。バイクで移動中に軍人に背後から撃たれたとのことで、体が不自由でした。しかし表情はとても明るく、私にこう言いました。
 「きょうはとてもうれしい。エルサルバドルにとって特別の日だ」
 「撃つな、私は記者だ No dispares soy periodista」と書いたTシャツが土産物になるほど、内戦中は多くのジャーナリストが殉職しました。そのことを知っている私は、強い感銘を受けました。
 私はこの職業について30年以上になります。ときには危険を侵してでも真相に迫り、伝えるのがジャーナリズムや報道の本道であり、やりがいがあると考えています。取材現場で困ったときに同業者に助けられる経験も多くしてきました。そこには、こうした職業意識、ジャーナリズム精神からくる共感が存在していたと思います。
 被告らの行為は、同業者の取材を不必要に邪魔するものであり、残念でなりません。私は記者クラブに所属していた時期もあり、その閉鎖性と行政との癒着ぶりを身をもって体験しました。青潮会の構成員も、そのあり方や運営方法に問題があることを知らないはずがないと思います。  
 先日の国連総会で、現在イギリス司法当局によって勾留されている、ウィキリークス創設者・ジュリアンアサンジ氏の釈放を訴える国家首脳の演説が相次ぎました。ブラジルのルラ大統領は「報道の自由は社会の基本である――É fundamental preservar a liberdade de imprensa.」 と述べました。
 私が裁判を起こした動機はこの言葉に集約されます。報道の自由が損なわれた社会がどのような悲劇的な運命をたどるかは、日本がかつて戦争賛美の報道に酔い、破滅した事実をみるだけでも明らかです。
 日本の報道の自由度が年々低下しているとの評価もあるいま、裁判所においては問題の本質を踏まえた上で慎重なる審議をされますよう、要望します。 
  
 以上

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 最高裁広報課長経験者として「記者クラブ」と接点のあった大須賀裁判長は、ときおりうなづきながら聞いていた。傍聴席には被告のひとりである共同通信社元鹿児島支局長の姿もあった。彼らに私の気持ちがどこまで伝わったのか、いまのところ、よくわからない。

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