常識的に考えれば疑いを挟む余地のない「盗用」について、「孫引きではあるが盗用ではない」という不可解な結論で免罪した武蔵大学の研究不正調査について引き続き考えてみたい。
同大学を相手どった訴訟のなかであらたに開示された調査記録の中に気になる記述がある。ひとりの委員が次のような発言をしている。
「山本議員の質問主意書執筆に際し、三宅氏の本を参考にしたことを認める一方、書籍(盗用が疑われる大内著『奨学金が日本を滅ぼす』)の執筆にあたっては三宅氏の書籍ではなく自身が執筆に関わった質問主意書を参考にしたと言っている。これは、孫引きにあたるとは言えるがこれを理由に盗用とは言い難い」
委員は、いかなる意味で「孫引き」という言葉を使っているのか。自然な読み方をすれば、本来なら三宅の書籍から直接引用すべきところを質問主意書から「孫引き」した、ということではないか。
仮にそうだとすると、委員が意見した「孫引き」と調査報告書に記載された「孫引き」はまったく意味がことなってくる。前者は、直接参照すべき「原典」が私の書籍中の記述を指すのに対して、後者は、日本学生支援機構の公表したデータが存在するとして(じっさいはそんなものはない)、それが「原典」だとの前提に立っている。その上で三宅の記述はその「公表データ」の引用であり、大内氏はこの「原典」、すなわち、実在しない日本学生支援機構の公表データを確認せずに三宅記述を(質問主意書を介して)孫引きしたと言っていることになる。
わかりにくいので図にかいてみた。まず、直接参照すべき「原典」は私の書籍中の記述だとする「孫引き」説。
続いて、日本学生支援機構が公表しているデータがあり、私の記述中の回収データはそこからの引用だとの前提にたった調査報告書の「孫引き」説。
どちらもこどもだましの詭弁であることがおわかりいただけるだろう。こうした詭弁をいつまでも弄して不正をただそうとしない大学の姿をみていると、学問の信用失墜の道を自ら好んで選んでいるようで興味深い。