戸田誠一氏を悼む

 共同通信社元メキシコ支局長の戸田誠一氏が逝去されたとの連絡をご遺族からいただいた。1989年にメキシコでお会いしたのが最初で、この出会いが、私がジャーナリストの道に進むきっかけのひとつとなった。いろんなことが思い出される。とりとめもない話をご容赦いただきたい。

 当時私は、留年続きだった大阪外大を休学してメキシコを放浪中だった。内戦中の中米エルサルバドルを訪ねたいと考え、現地の状況を知っておこうと電話帳をめくって共同通信のメキシコ支局があることを知り、公衆電話で電話をかけた。電話に出た支局長の戸田さんは「飯でも食おう」と言い、日本食レストランの「カブキ」でごちそうになった。カブキの荻野さんにもその後、日墨新聞の広告集めのアルバイトを紹介していただくなど、お世話になった。

 内戦が激しいから気をつけろ。現地に行ったらコレクトコールで電話をかけてこい。戸田さんはそんな助言をしてくれたあと、こういった。

「ところであんたいまどこに泊まってるんだ。よかったらうちに来るか。助手がほしい」

 メキシコ市の一泊10ドルもしない安宿(「Casa de los amigos」)にいた私は、よろこんで翌日から支局に住み込んだ。San Angel という高級住宅街の3階建ての大きな邸宅が当時の支局兼住居で、1階の「運転手部屋」が私の下宿にあてがわれた。執務室は3階で、寝る時以外はほとんどそこにいた。大量の新聞のスクラップづくりや、巻紙で大量に流れてくる外電のチェックの手伝いをやった。出張中には電話番もした。酒が好きで、「おい君も飲むか」が口癖だった。戸田さんは博学で、しばしば私は話題についていけなかった。そのたびに「ほんとに三宅くんはモノを知らないな」と笑いながら教養のなさを嘆いた。

 後に私は共同通信社の入社試験を受けたが、筆記試験で不合格となった。戸田さんに報告すると「なんだ筆記で落ちたのか。そりゃだめだ。本当に教養がないな」と笑っていた。

 私は、支局を拠点にメキシコ各地を旅をして写真をとった。エルサルバドルにも行った。金がないので陸路で入ったら数日のビザしかでず、内務省に更新の手続きに行ったところ、国際学生証とカメラを持っていることから「ゲリラのシンパ」と認定され、取り調べを受けた。そして数日後の退去を指示された。

 結局、サンサルバドルの大衆食堂でキャベツの酢漬けと分厚いトルティージャ(ププサ)を食べ、女主人と雑談をしただけで出国した。途中、メキシコ・ゲレロ州ラサロカルデナスの知人宅に立ち寄り、しばらく世話になった。テレビを見ていると反政府ゲリラFMLNが首都大攻勢を行い市街戦になっている様子がニュースで流れていた。メキシコに戻ると「君はほんとにどんくさいなあ(肝心なときに現場にいない)」と戸田さんが笑って言った。

 12月には米軍のパナマ侵攻があった。運転手部屋で寝ていると「三宅くん、パナマがはじけた!」と戸田さんが起こしにきた。スペイン人カメラマンが米兵に射殺される事件があり「米軍はナーバスになっている」と緊張した様子だった。戸田さんは現地入りし、私は支局で電話番をした。

 1990年2月にニカラグアで大統領選挙があり、私は戸田さんの助手で行った。たしか2週間くらい前だったと思うが、先発隊として単独で現地入りした。ホテルに連泊する金はないので、泊まる先も決めずに行った。飛行機の中で隣になった高齢の女性が私のことを心配して「うちにくるか」と言ってくれたのがきっかけで、ごやっかいになった。低所得者層の地区にある大家族のパン屋だった。夫も息子もサンディニスタ政府軍の元兵士だった。息子は軍のトラックが横転して負傷したとのことだった。

 ある日、市場でボロボロのホンダのモンキーバイクが300ドルで売りに出されているのを見つけた。戸田さんに電話をすると「それはいい、買っといてくれ」とのことだったので買った。ブレーキワイヤーやら部品を買いたして修理し、書類の手続きを弁護士に依頼して、乗れるようになった。息子に案内してもらってマナグアの隅々を走り回った。

 選挙が近くなると戸田さんがメキシコからやってきた。私はインターコンチネンタルホテルというマナグアで最高級のホテルに入った。モンキーバイクに2人のって取材に走り回った。交通事情が悪いのでタクシーはなかなかつかまらない。バイクのおかげで身軽に動き回れた。

 当時はファクスもなく、手書きの原稿を電話局からテレックスで送信していた。ある夜、ホテルから電話局まで2人でバイクに乗って行き、送稿して帰ろうとするとエンジンがかからない。燃料タンクをみるとガソリンを抜かれていた。「こりゃひでえな」と笑いながら夜道をバイクを押してホテルまで帰った。そんなこともあった。

 私が帰国した後も戸田さんには世話になった。大学を卒業して駆け出しのフリーカメラマンとしてアフリカに長期旅行に行くときは、出発前に当時の虎ノ門本社で外信部に訪ねた。外信部長を紹介された。「アンゴラは危ない。モザンビークなら自衛隊が行っているのでニュース価値がある」と助言された。飛行機が福岡空港発で、東京から夜行バスで福岡に行く予定だったが、バスに乗り遅れそうになり、カメラやフイルム、現像タンクなどの詰まった重い荷物を持っていっしょに走ってくれたのを覚えている。アフリカ取材では戸田さんに紹介してもらったヨハネスブルグ支局長にお世話になった。

 海外取材に行くたびに「困ったことがあったら相談しろ」と現地支局長を紹介してくれた。売り込んでみたらどうか、と写真部にも紹介してくれた。

 戸田さんはいったん東京に戻った後、再びメキシコ支局長をつとめた。支局の場所は変わって少し狭くなった。掃除やまかないをやってくれている現地やといの女性や助手たちは昔のままで、私も彼らと親しくなった。チアパス州で紛争がおきていて、その取材に私は単独で行ったが、肝炎になって急遽帰国した。出直して再び取材に行き、NPOの機関誌にレポートを書いた。「原稿料もらったのか」と戸田さんに聞かれて「ないみたいです」と答えたら叱られた。

「だめじゃないか。ちゃんともらったほうがいいよ。あんたプロなんだろう」

 キューバやマイアミ、ハイチへもいっしょに行った。戸田さんはキューバが好きだった。私もキューバが好きになった。

 私はそれまで大阪、岡山、香川を拠点にしていて、2002年に東京に出てきた。ときどき会った。居酒屋で酒を飲ませてくれた。会うたびに、きまって「最近どんなのかいてるんだ。食えてるのか」と心配してくれた。

 戸田さんは共同通信を定年になり、しばらく嘱託で続けたのち、完全に退職した。病気を患い酒もタバコもやめたとのことだったが、酒は再開した。汐留の職場を引き揚げるときには荷物持ちの手伝いをした。高層階からみる曇り空の街が印象的だった。

 今年6月、何度目かの入院をするというので病院に行った。「三宅くん、おれはもうだめだな」と、特に感情もなさそうにポツリと言った。その後、「ジャパンタイムスと、あれ買ってきてくれ」と私にたのんだ。

「あれ?」

「あれだよ。見つからないようにな。君も好きなもの買ったらいいよ」

 カップ酒のことだった。私は院外のコンビニに行きカップ酒を探したが、「三宅くん、おれはもうだめだな」がショックでうまく見つけられず(わかりにくい場所にあった)店内をうろうろした。ようやく見つけて病室にもどったが、ジャパンタイムスを忘れた。

 戸田さんはすぐに退院し、病院から戻るときに自宅近くのサイゼリアで食事をごちそうになった。「好きなもの頼んだらいいよ」と私にいい、自分はビールとミネストローネを頼んだ。私は赤ワインとスパゲッティかなにかを頼んだと思う。「もういいのか」と私が空腹でないか気遣う様子は昔のままだった。スマホで注文する仕組みだったが、私の携帯が調子が悪く、戸田さんの電話を使わせてもらった。ミネストローネがくると「これうまいよ」と私のほうに押しやった。私はすべて平らげ、戸田さんはほとんど口にしなかった。恩着せがましさのそぶりもなく、いつものようにクレジットカードですべて払ってくれた。

「ごちそうさまです」というと、「ああ」とそっけなく言う反応もいつもどおりだった。部屋までつきそい、「また来ます」と言って別れた。それが最後になった。

 戸田さんは、私が売れないフリーだからといって決して馬鹿にすることはなかった。私がアマチュアだったころから、「カメラマン志望の三宅くんだ」とちゃんと人に紹介してくれた。スペイン語(カスティージャ語)で紹介するときは、自分の「Amigo(友人)」だと言った。私が本を出すたびに丁寧に読んでくれた。

「君はほんとにどんくさいなあ」

「ほんとにモノを知らないなあ」

 戸田さんの言葉が、いま、温かさとともに蘇る。

 合掌。

 

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